礼拝メッセージ

11月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「この恵みに生きる」            ガラテヤ人への手紙2章21節

「私は神の恵みを無にはしません。」  ①この言葉は、パウロの内なる戦いから生まれた言葉です。「人はどうして神の前に正しくあり得ようか。」この命題を前にして、パウロは日夜苦闘致します。そしてこの正しさ(義しさ)は、律法の行いを実行することによって得られるとの確信のもと、律法の要求を満たさんがために精励の日々を送りました。その時の自分をパウロは、このように告白しております。「私は八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し……律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」(ピリピ3章5~6節)このような内なる戦いを経て語られた言葉です。 ②又、この言葉は、否定の中から生まれた言葉でもあります。パウロは神の前に正しくあろうと日夜努力します。その結果パウロが辿りついた心境は、「私にとって得であったこのようなものを、みな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3章7~8節)ということでした。このパウロの言葉の底流にあるものは、人間的なものへの否定でした。誰よりも人間的なものにおいて頼むとろこがあるとすれば、他の人以上に多くの外面的なものに、より頼むものがあり、どこまでも人間的な力を信頼したパウロ。しかし、救いには何の力もないことを実感したパウロの否定の言葉なのです。 ③さらに、この言葉は再生の喜びから生まれた言葉でもあります。律法の行いによる自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義という福音の真理に出会ったパウロは、自分の探していた真の救いの道を見出したのです。パウロはキリストに捉えられ、「あの方は私を責めず、そればかりか使徒に選び使命を与えて下さった。最も卑しく、最も卑劣な私をあえて選んで下さった。」とその恵みの豊かさ、広さ、深さのゆえに、パウロはどこまでもこの恵みに立ち続けるのです。そしてこの福音の真理を守るために戦い、その決意が「私は神の恵みを無にはしません。」という言葉に込められているのです。

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