礼拝メッセージ

11月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「幸いかな、泣いている者よ」          ルカの福音書6章21節

新美南吉の短い童話に「でんでんむしのかなしみ」があります。かって美智子皇后さまが「何度となく思いがけない時に、記憶によみがえってきた童話です。」とお話しされたことで、人々に広く知られるようになりました。―いっぴきのでんでんむしが、ある日自分のせなかのからの中に悲しみがいっぱいつまっていることに気づきます。この悲しみはどうしたらよいでしょう。『わたしはもう生きていられません。』と友達を順々に訪ねて聴いてまわるのです。どの友達の答えも同じでした。『あなたばかりではありません。わたしのせなかにもかなしみはいっぱいです。』そこで、でんでんむしは気づきました。『かなしみはだれでももっているものだ。わたしばかりではないのだ。わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきゃならない。』そしてこのでんでんむしはもうなげくのをやめたのです。―しかし本日、キリストがここで語られるお言葉は、悲しみの中にじっと耐えるようにということではありません。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」と語ります。この言葉は何という言葉でしょうか!これは人間には不可能な言葉です。キリストのみが口にすることの許された言葉です。キリストは泣きたければ泣けばよい。叫びたければ叫ぶがよい。その悲しみが祝福を受けるのだと言われるのです。それゆえ「いま泣いている者は幸いです。」とキリストが言われる時、私たちはキリストが「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)お方であるという事実に気づかされます。キリストこそ悲しみに生きた方で、その悲しみの中で死なれた方です。そのキリストをヘブル人への手紙5章7節では「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と描くのです。人間のさまざまな悲しみのいずれもが、私たち人間の弱さ、みじめさ、そして罪から生まれる悲しみであり、涙を流すのはそれを生み出す罪があるからです。そのために涙をもって十字架に到るまで歩みぬかれたキリストこそ、聖書が語るキリストの姿なのです。ですから、私たちが「いま泣いている者は幸いです。」というキリストの言葉に慰めをうけるのです。

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