礼拝メッセージ

11月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「空の鳥 野の花にまさりて」        ルカの福音書12章22~31節

「いかに鳥は、手許にゆるされてあるもので生きていることか。いかに鳥は、その貧しさに必要なだけのわずかのもので生きていることか。いかに必要な程度のもの以上をとろうとしないことか。これに反して人間は、食べることや飲むことに心配ばかりしている。厚かましくも、とてつもなく豊かな貯えを持ちたがる。そしてそれゆえにこそ、神の豊かな世界に飢える者がいる。人間は不安や心配が先立つあまり、コップ一杯の水で間に合うはずのところ、海をその手中にしないとおさまらない。空の鳥を見るがよい。神は鳥をわれらの教師としておたてになられた。」(キルケゴール)                           今主イエスは、空の鳥、野の花を教師として、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。主イエスは、「あなたは何かと言えば、自分のいのちのことで心配し、思いわずらっている。しかし考えてみなさい。あなたはどのようにしてそれを得たのか。いのちはどこから来たのか。」と、問われます。勿論答えは、「それは神の賜物なのです。」人間はいのちを創造できません。いのちそのものが神の賜物だからです。そうであるならば、今になって神が突然そのいのちの維持、継続にみこころを向けて下さらなくなるということは、どうしてあり得ましょうか。神はご自身の方法で、人のいのちを維持して下さいます。ですから私たちはそれについて、少しも思いわずらう必要はないと、主イエスは言われるのです。神学者カルヴァンは「キリストは彼の民たちに思い煩いをすべて神に委ねることを教える以外の何物をも求められなかった。」と言いました。もし、全てが神のものであるなら、思い煩いも神のものであるはずです。ですからペテロは「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神はあなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5章7節)と語りました。思い煩いは神の領分だというのです。したがって私たちが思い煩うならば、それは自分の領分を越えて、神の領分に入り込んで心配しているのです。「思い煩いを神にまかせなさい。」

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