礼拝メッセージ

10月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「安息日―この喜びの日よ」          ルカの福音書6章1~11節

日本が日曜日を公休日としたのは、1876年(明治9年)4月からです。それまでの公休日は、毎月6回、1と6に当たる日(1,6,11,16,21,26,31は除く)でした。それが月4回の日曜日へと変わったのです。そこには日曜日は神を礼拝する日として守るキリスト教徒を無視できず、日曜日と土曜日正午からを公休日とする告示をしなければならなかった明治政府の苦渋の選択を感じます。教会は週の初めを「日曜日(日曜礼拝)」「聖日(聖日礼拝)」と呼ぶかあるいは「主の日(主日礼拝)」と呼んできました。「主の日」という表現は初代教会が早くから用いたものです。その呼び方がどこから生まれたかということについて、聖書的な起源はこのルカの福音書6章5節の「人の子は安息日の主です。」という言葉に求めることができます。もとは一週の終りの日であった安息日が週の初めの日曜日になったのは、主イエスが復活された日だからです。その日がいのちの始まりの日であり、主イエスが「安息日の主」となられたからであります。この「休息」「安息」という言葉のもとの意味は、仕事を終える。労働と激務の手を休めるということです。この事は主なる神が6日間働いて世界を創造され全てにおいて満足され、これらを祝福して7日目に深い満足の安息をなさった。従って人間の安息日とは、そのような神の祝福の安息の中に身を置くことなのです。つまり神と共に休む、神と共に憩うことが礼拝の意味なのです。このようにして始まった安息日ですが、完全な聖なる休みとは何かと追及し、そのための基準が設けられ、細かいところまで言及する規定が生まれ、だんだん安息日は形式化してきました。本日の箇所は主イエスと弟子たちが安息日を守る基準を破ったことに対して、パリサイ人、律法学者の批判が主題となっております。本来安息日は何もしない日でした。けれども主イエスはここで善を行うこと―(人のいのちを救うこと)―と悪を行うこと―(人のいのちを殺すこと)―とどちらが大切であるかを問いかけ、安息日の掟を乗り越える者、安息日を支配する者としてのご自身を語っておられます。主イエスが「安息日の主」であられる時、安息日が本当の安息になるのです。なぜなら、そこに主イエスが苦しむ者、悲しむ者、飢え渇いている者と共におられるからです。そこでは何を「しない」かではなく、「する」ことが大切であります。主イエスはこの日曜日が主の日として祝われ、主によって支配されることを望まれます。神はすべての週日を美しく装い、安息日を歓喜の日と名付けられました。それゆえにこの礼拝は、その主の祝福の中に私たちすべてが置かれる喜びの時であり、私たちに、ほめ讃えるべき方はだれかを教えてくれる時なのです。

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