10月7日(日) 礼拝メッセージ要旨
「彼にふさわしい助け手」―男としてのアダム― 創世記2章18~23節
人間は、その関係と役割によって、人としてのあるべき姿を現します。聖書が描く人間像がそれです。創世記はその事をアダムという、神によって創造された人を通して、その全体像を示します。全人類の代表としてのアダムから、男性としてのアダム、さらに夫としてのアダム、そして父親としてのアダムの姿を描くことによって、人間をいろいろな角度から見つめ、人間の持っている特質を明らかにします。 本日の聖書のテキストは、「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)という言葉に焦点が合わされているように「女」という他者との関係の中で、「男」としてのアダムの役割、立場が明らかになるのです。「人がひとりでいるのは良くない。」と、神である主が言われる時、「良い」とは「完成した」「良い出来だ」という意味ですから、「良くない」とは、「まだ完成していない」「不完全だ」という意味になります。人がひとりでいることはまだ完全な状態ではないということなのです。そのため神はアダムに「ふさわしい助け手」を与えられたのです。「助け手」は、直訳で言いますと、「人に対して真向かいの者、真正面から向き合う者」です。対等に向き合う存在としての「女」。そういう存在がいないと、人は人として生きることが出来ないのです。神の創造は未完成、不完全なもので終わってしまいます。そのために神は「女」という存在を造ろうと言われるのです。そして神は「その女を人のところに連れて来られた。」(創世記2:22)のです。人は「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」(創世記2:23)と叫び、自分と対等に向き合い、対等の関係の中で愛し合い、互いに人として生かし合う存在として、「女」を受け止めたのです。その瞬間に、それまでのアダムとは違う人間、「男」としてのアダムになったのです。一方「女」は命を産み出す存在として、この後アダムは妻である女をエバ(命)と呼ぶようになります。 聖書は語り告げます。私たちの命は神の御手のうちにあること。「いのちは授かりもの」であること。したがって私の物ではありません。神から授かった尊い賜物です。その命は愛し合う中で生きるのです。 今日、自殺、虐待、殺人等、真に痛ましい事件が連日起こっております。聖書は「命の大切さ」について教えてくれます。私たちの命は神のものであり、神が造って下さったのです。ですから子どもの命の根拠も、神の愛にあります。子どもは親のものではありません。従って男と女は互いに協力して、神から預けられた子どもを愛し、育てる務めがあるのです。