10月21日(日) 礼拝メッセージ要旨 児玉 剛牧師
「天にまします我らの父よ」 マタイの福音書6章9節 創世記3章8~21節
毎週の礼拝で告白する「主の祈り」は、神が天におられる存在であると高らかに宣言します。「天にまします…」そして同時に、その偉大で、栄光に満ち、絶対的な主権者である神に「父よ」と呼びかけるようにとも教えます。「天にまします我らの父よ」しかし実際には、なかなか「父よ」と呼びかけることはできません。「私のような罪深い人間が、神様に気安く『父よ』と近づくなんて…」と後ずさりしてしまいます。しかし聖書は「それは違うんだよ」と諭してくれます。創世記より最初の人・アダムに注目してみましょう。 神が造った最初の人・アダムはエデンの園で幸せに暮らしていました。ところが、アダムは神の戒めを破り罪人となります。そんなアダムに神はどう対処したでしょう。 1.先ず身を隠すアダムを神は探し求めます。(9節) 2.続いて神は、神の御顔を避けるアダムに、悔い改めの機会を与えます。(11節) 3.悔い改めを促す言葉にも応えず「女が悪い」と責任転嫁するアダムを前に、将来罪をあがなう救い主がエバの子孫から生まれると救いの約束を与えます。(15節) 4.そして救いの約束の印として、神ご自身が皮の衣を作り、アダムとエバを覆ったのです。(21節) 神の戒めを破ったアダムに相応しい報酬は死でした。自らの罪を悔い改めず責任転嫁するアダムに相応しいのは永遠の滅びでした。しかし、神はアダムを探し、アダムに呼びかけ、アダムに救いの希望を与え、アダムにその約束の印までもお与えになるのです。全知全能にして、全ての造り主、もろもろの天を統べ治めておられる神は、慈しみに満ちた父なのです。その父なる神が、今日もわたしたちをご自身のみもとに招き、『父よ』と呼び掛けるように促しているのです。「そんな畏れ多い」そう思いますか?「こんな罪深い私にはとてもできない」そう思いますか?でも皆さん、そよ風の吹くころ、あのエデンの園で神が捜し求めたのは、一体誰でしたか?神が声を掛けたのは、一体誰でしたか?救い主誕生の約束を告げ、希望を与えたのは、一体誰の為でしたか?それは、罪を犯す前のアダムではなく罪を犯した後のアダムです。その同じ神が、同じ慈しみをもって、今日も私たちをご自身のみもとへと招いて下さっています。