10月18日(日) 礼拝メッセージ要旨
「憐れみを好まれる神」 マタイの福音書12章1-8節
人々はしばしば、自分なりの基準を決めてその基準をもって他の人を判断し裁くことがあります。イエス様の当時、パリサイ人たちもそのような人々でした。彼らは、神様が与えて下さった律法の本来の意味とは関係なく、自分たちで決めた規定をもって色々なことを判断し、その規定を守らなかった人々は神様に罪を犯したと見なして裁いたのです。律法本来の意味はなくなり、外側だけの行為だけをもって物事を判断し、その規定を良く守る自分たちを自ら正しいと思っていました。
イエス様は、そのようなパリサイ人たちの間違ったところを教えるために、ホセヤ6章6節の御言葉を引用して「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われました。ここに現れていることは、中身は失ってしまって外側の形式だけが残っている律法、そのようないけにえは神様は喜ばれないということです。形式だけのいけにえというのは、いけにえを捧げる人の心に神様へのどんな感謝も喜びもなく、ただ儀式を通して自分を正しくするために行った行為を表します。しかし神様が私たちに求めておられるのは、神を愛し隣人を愛する事です。そしてその愛をもって他の人々に憐れみを施し、その上で行われる行為なのです。しかしパリサイ人たちの律法は、その愛と憐れみはなくなって外側の行為だけが残り、そのような律法をもって他人を裁いていたのです。
そこで私たちの信仰の姿はどうなのか考えて見なければなりません。パリサイ人のように、その基準だけをもって他の人を非難し裁いている姿をもってはいないか、良く考えて見なければなりません。代表的な例になりますが、礼拝に来るということを思う時、その行為をもった自分は正しいと思い、礼拝に来ない或いは来れない人々を心の中で裁いてしまうなら、それは形式だけのいけにえを捧げるような事です。最も大事なことは、神様から恵みと愛を覚えて感謝する心です。その神様を見上げ、神様からの愛と祝福に満たされて生きて行く者になりたいと思います。