礼拝メッセージ

1月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「なぜわたしが―苦難の痛み―」       ルカの福音書2章41~52節

歴史にその名を残した全ての人の生涯には、二つの大きな出発点があります。一つは彼がこの世に生まれた日であり、もう一つは何故自分がこの世に生れてきたのか、その理由を知った日であります。主イエスにとってそれは、12才の時でした。過越の祭りのためにエルサレムに上がり、神殿で「私が自分の父のもとにいるのは、当たり前だということを知らなかったのですか。」(ルカ2:49)と神の子としての自意識にめざめた少年イエスのことばに、そのことが表わされております。さらにルカが描く12才の少年イエスの物語は公生涯の主イエスの縮図でもあります。それは「エルサレムへの旅」と「エルサレムでの出来事」を暗示しているからです。(1)少年イエスのエルサレムへの最初の旅はやがて十字架に向かってガリラヤからエルサレムを目指す、主イエスの旅を思わせます。(2)少年イエスのエルサレムへの旅は『過越の祭り』のためでした。主イエスの公生涯における旅の終着地エルサレムで起こった、苦難、十字架、復活は、『過越の祭り』をはさんでの3日間の出来事でした。(3)少年イエスがエルサレムでとられた行動は、神殿において学者たちとの問答でありました。十字架を前にして主イエスも「毎日宮で教えておられた。」(ルカ19:47,20:1)その主イエスの生涯を共に歩んだマリヤは、「あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。」(ルカ2:48)という言葉の意味と重さを除々に味わっていきます。そしてマリヤの心が最高に突き刺される出来事、それが我が子イエスを十字架の上に仰ぐという出来事でした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という主イエスの叫びを耳にした時、「神よ、あなたはなぜ私にこんなことをしたのです。」というマリヤの叫びとなります。                                                         キリストの生涯と今の時代に生きる私どもに共通する主題は、「人はなぜ苦しまなければならないのか」ということです。マリヤはまさにこの問題に直面したのです。『なぜ汚れのない我が子が、このような苦しみを受けなければならないのか?』『なぜ自分がこのような苦しみを受けなければならないのか?』これらの人生の難問を自ら問う時、神とはどのような存在なのか。なぜ神を信じなければならないのか。神に何が期待出来るのか。マリヤと共に私どももこの問題に向き合うのです。そして『なぜ』を問う時、『なぜ』に私たちは答えることが出来ません。しかし、『なぜ』を問うその不条理のただ中に立ち続けることが出来るとすれば、それは『なぜ』を共に分かち合うことが出来る存在、そのようなお方を持つ時です。その時、私たちは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたキリストが、不条理のただ中で苦しむ者と共に苦しむ存在として、私たちの前に立ち現れて下さるのです。それによって、なぜキリストが、「その名をインマヌエル(神は私たちとともにおられる)」と呼ばれたのかが明らかになるのです。そして私たちはこのように言うことが出来るのではないでしょうか。「神の子が苦しみの果てに、あのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためにではなく、人間の苦しみのただ中にいます主に似るようになるためであった。」と。





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