1月27日(日) 礼拝メッセージ要旨
「ありのままの悲しみに向き合う」 サムエル記第二18章24~33節
「だれひとり悲しみが、こんなにも怖れに似たものだとは、語ってくれなかった。」 この言葉は、C.S.ルイスが最愛の妻、ヘレン・ジョイを病で失った時の思いを言い表したものです。死別の悲しみは、怖れに似ている感じがすると告白しております。人との出会いと別れは、人生における中心的な要素です。よき出会いは人生を豊かにし、彩りを与えてくれます。一方で大切な人との別れは、深い悲しみの日々をもたらします。残された者の心身や人生に、計り知れない影響を及ぼします。聖書に登場するダビデは、この死別の悲しみを誰よりも、深く重く味わった人でした。彼は3度にわたり愛する我が子との死別を経験しました。最初にバテシバとの間に生まれた子供を病気で7日目に失い、次に長男アムノン、そして三男アブシャロムと続く死別の悲しみに出会うのです。特にアブシャロムの死に対するダビデの悲嘆にくれる姿を聖書は生々しく描いております。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(サムエル第二18:33)ダビデの悲しみの叫びは、王位を奪い取ろうとし、父ダビデのいのちをねらい、大軍を率いて攻めてきたアブシャロム軍にダビデ軍が勝ち、息子アブシャロムの戦死が伝えられた時の嘆きの声でした。ダビデはこの時、戦いの勝利を全く喜ばず、ただわが子の死に泣き崩れるだけでした。王のために戦った部下にとって、その態度がどれほど不愉快に感じられたことでしょうか。ダビデはこの時、王であるよりも、ひたすら一人の父親であったのです。彼は戦いの始まる前に兵士たちに「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(サムエル第二18:5)と頼むのです。子を思う父の姿がそこにあります。「ああ。私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と嘆くダビデの目には、謀反を起こした反逆児アブシャロムの姿はなく「わが愛する子」のみが映るだけでした。あくまで自分を憎んで殺そうとしたアブシャロムを愛し続けたダビデの痛苦の姿こそが、イエス・キリストの姿そのものではなかったでしょうか。主イエスは私たちの罪の破れ口に立ち、父なる神に「ゆるやかに扱ってくださるように。」と執り成してくださり、ダビデが成し得なかった身代わりの死を、あの十字架で成し遂げてくださったのです。