1月24日(日) 礼拝メッセージ要旨
「心の貧しい者」 マタイの福音書5章1‐4節
本日の本文は、クリスチャンが神様の子どもとして幸せであるということを最も立派に教えているところです。この部分を含めてマタイの福音書5-7章を山上の説教と言いますが、イエス様が天の御国の民が持つべきこころについて詳しく説明して下さった内容です。この山上の説教は、イエス様がこの時、一気に教えて下さったものではなく、著者マタイがイエス様の教えを集めまとめて記録したものです。それは、イエス様の教えの本質がどういうものであるのかを、マタイの福音書の初めの部分にはっきりと示そうとしたものだと思われます。
その教えの一つ目は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」ということです。この文書は、原文では「幸いだ」という言葉が冒頭に来ていて「何と幸いなのか」という感嘆文です。即ち「何と幸いなのか、心貧しい者よ。」となります。そして誰が幸いなのかと見ますと「心の貧しい者」だと言われています。心豊かなものではなく心の貧しい者が幸いだと、イエス様は言われました。この「心の貧しい者」とは、神様の御前で、或いは神様に対してその心、つまり魂が貧しい人ということです。神様に対して、その魂が貧しい人というのは、神様の教えと戒めを全く、何一つも守り従う事が出来ない人ということです。
そういう人に対して如何して幸いだと言えるでしょうか。人間の心は罪によって堕落し、神様に対して何も出来ないものです。イエス様はそのような状態にある罪人に来られて「幸いだ」と仰ってくださるのです。何故なら、何も出来ないほど貧しい心をもっている者に、天の御国をその人のものとして与えようとしておられるからです。私たちは本当に心の貧しい者です。神様の御前で、その教えを分かっても守り従う事が出来ない貧しい者です。そのような自分の心の貧しさを覚えて、私たちに幸いですよと仰って下さり御自ら犠牲を払って天の御国を与えて下さったイエス様の大きな愛を覚えたいと思います。