1月13日(日)礼拝メッセージ要旨 青木稔牧師
「主の願う道を歩む新年」 ローマ人への手紙12章14節~16節
今日の聖書箇所には、迫害する者たちを呪うのではなく祝福しなさいとあります。それに続いて「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」と記されています。自分を迫害する者の祝福を願うことを考えますと、それは難しいことだと思うのです。それに続いて、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くという勧めがある訳ですが、それは迫害する者のために祝福を願うことと同じくらいに難しいことだからではないでしょうか。言い換えるならば、喜ぶ者とともに喜ぶこと、泣く者とともに悲しむという、聖書の言葉に従うためには、迫害する者のために祝福を祈るという決心と愛がなければ到底できることではないことを聖書は教えているではないでしょうか。
悲しんでいる人は、その悲しみがあまりにも深い時には、慰められることを拒否するということもあります。そういう人と共に悲しむことは難しい、牧師になりまして、何度も経験したことです。一方で喜んでいる人は、一緒に喜んで下さいと喜びの中に相手を招こうとしますが、私たちの中に、うらやましさがあったりして、これまた素直に応じられないこともあります。それでありながら、自分にとって喜ぶ時に一番必要とするのは、一緒に喜んでくれる人であり、悲しいは、一緒に泣いてくれる人を必要とするのです。そう考えますと、自分はなんと身勝手で、弱く、罪深い者であるかを思い知らされます。どうしたら、そのような罪と弱さから解放されて、神の願う、共に喜び、共に泣くという、生き方ができるのでしょうか。続くローマ人への手紙12章16節にはこうあります。
「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」
秘訣がここにあります。一つ心になって思いあがることをやめ、自分を知恵ある者とすることを、やめてみることです。言うならば、静まり、神の前にへりくだることです。現代は○○ファーストという言葉に溢れています。国はもとより、個人においてもそうかも知れません。言い換えるならば、相手をひざまずかせることに夢中です。
私たちは神の前に静まり、ひざまずくことなしに、神の祝福を受けることは出来ません。新しい年を迎えましたが、天地万物を造り、私たちに命をあたえておられる神に礼拝を捧げること、それこそが主の願う道です。そこに「喜ぶ者と喜び、泣く者と共に泣く」という生き方が、神の恵みとして、私たちに与えられるのです。