3月6日(日) 礼拝メッセージ要旨
「キリストの証人として」 ルカの福音書3章15~20節
ルカの福音書は、3章の冒頭から、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」と宣言します。それは、皇帝テベリオの治世の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主(ルカ3:1)の時、神のことばは、バプテスマのヨハネの声となって解き放たれ、旧約聖書の最後の預言者マラキ以降途絶えていた預言者の声として、深く長い沈黙の時を突き破り、荒野にひびき渡ります。その声に応じて「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ」(マルコ1:5)集まって来たのです。人々はヨハネの語る悔い改めを迫ることばに耳を傾け、洗礼を受け、救い主の到来を信じようとしました。ヨハネは圧倒的な民衆の支持を得ました。その人気、実力からして一宗派の教祖になり得る状況にありました。人々はヨハネについて「もしかするとこの方がキリストではあるまいか。」(ルカ3:15)と考えていたのです。けれども彼は生涯の絶頂に在りながら、救い主の先駆者としての自らの使命『キリストの証人』に徹して生きた人でありました。その象徴的な姿をヨハネの福音書から見ることが出来ます。ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)と叫び、その指をイエスに向けるのです。荒野で叫ぶ者の『声』(マルコ1:3)として、またイエスを指し示す『指』として、ただキリストのみを紹介し、最後は獄中での死をもって、自らの生涯を閉じました。ヨハネは権力者を恐れず、命をかけて、言うべきことを伝える預言者の生き方を貫きました。神のことばを取り次ぐ者として、ヨハネは自分ではなく、イエスのみに人々の目を向けさせました。そのことは、自らの『キリストの証人』としての限界に踏み止まることでもありました。自分が民衆の要求に応えてキリストになるということはありませんでした。確かにヨハネの最後は悲劇的でした。しかしやがて、主イエスによって「女から生まれた者の中で、ヨハネよりすぐれた人は、ひとりもいません。」(ルカ7:28)と位置づけられました。 そのヨハネの生涯から私たちは、何を学ぶことが出来るでしょうか?それは第一に私たちは、主からある役割を与えられて、生きることがゆるされている者であるということです。ヨハネは自分に与えられたキリストの先駆者としての役割を受け止め、その役割に生きたことが主イエスによって高く評価されました。私たちも神の前に、どこまでも小さな土の器にすぎません。しかし、主イエスはその小さな存在にすぎない私たちに、それぞれ役割を与えて下さり、その役割を忠実に生きるようにと支え導いておられるのです。 第二に私たちの生涯は神の栄光を現すために用いられるということです。ヨハネは、ヘロデの宴会の座興の席の「なぐさみもの」となって獄中死を遂げました。その死は人の目から無駄死のように見えてもヨハネは「私は喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29)と言い切って、衰えなければならない人生を生き、自らの死をそのように見つめ終えました。どこまでもキリストの御名のみがあがめられ、人々の心に残り続けるようにと願いつつ彼は生きたのです。私たちもヨハネのように「あの方は盛んになり、私は衰えなければならない。」という生き方を喜びに満たされて受け止めることができるのです。なぜなら「女から生まれた者の中でヨハネよりすぐれた人はひとりもいません。しかし神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)という主イエスの確かな私たちに対するまなざしがあるからです。